讃岐漆器の蒟醬(キンマ)塗りと檳榔噛み

第10回 2001年10月号掲載

日本に伝わるメコン圏事物・事象
江戸時代以来の伝統をもつ讃岐漆器(香川漆器、高松漆器)の蒟醬(キンマ)塗りの手法と呼び名の起源は、アユタヤ時代のタイにあった

 讃岐漆器(香川漆器、高松漆器)は、江戸時代以来の伝統をもつ高松を中心とする香川の代表的な特産品の一つであり、1642年(寛永19年)、高松藩松平氏初代・頼重(よりしげ)が、その製作を奨励したのが始まりとされるが、高松漆器発展の基礎を固めたのは、江戸時代後期の玉楮象谷(たまかじ・しょうこく)と、後藤太平(ごとう・たへい)である。この2人の名前は、象谷(ぞうこく)塗・存清(ぞんせい)・彫漆(ちょうしつ)・後藤塗と、いくつかの種類に分かれる讃岐漆器の名前にも、残されている。

 この讃岐漆器の代表的な象谷塗りは、一般に蒟醬(キンマ)塗りと呼ばれ、この蒟醬(キンマ)彫りは、塗立の上に図案を置目し、漆の塗面に小刀(蒟醬刀)を使い線や面彫りを施し、彫りの中に固く練った色漆を2,3回塗り込めて全面を研ぎ出すことによって彫った箇所に色の線や面が現われる技法。が実はこの装飾技法は、元来、タイ・ミャンマー地域の技法が、四国の高松に定着し育ってきたというものである。

 タイ国で檳椰樹の実と石灰をまぜ、蔓草の葉に巻いて咬む風習があり、それを”キンマーク”と呼び、これらを入れる容器が籃胎漆器で、その外部には漆塗りの上に線彫りが施されている、この容器が東南アジアとの貿易で日本に入ってきたのは、室町時代の中頃らしいが、日本に輸入されて茶人等でもてはやされた。”キンマーク”は日本人には”キンマ”と聞こえ、千利休は、この漆器を蒟醬(キンマ)手と呼び茶器とともに珍重したとも言われる。尚、籃胎漆器とは、細く裂いた竹や木の皮で編んで作った籠に漆を塗ったもので、タイやビルマ等の東南アジアの漆器素地には籃胎が多く使用されてきており、ちなみに日本では福岡県久留米の籃胎漆器が有名。(讃岐漆器の蒟醬塗りも最初は、本場と同じ竹を編んで素地にしていたが、今は漆器素材は木である)

 この”キンマーク”だが、タイ語で”キン”は「噛む」「食べる」、”マーク”は元来「果実」の意であったが、「檳榔樹」を”マーク”と呼ぶ。檳榔を噛むということだが、マークのクの音が詰って日本人には”キンマ”と聞こえ、このキンマの言葉が定着した。檳榔樹は樹高20mに達し、幹は青竹のようで、葉は頂上に集まり羽状。実は房状になり、熟せばダイダイ色で3~5cm、その核はビンロウジ(檳榔子)と称し赤い。この核を薄く切り、赤く染めた石灰を塗ったタイ語でプルーと呼ばれる東南アジアに自生する胡椒科(ツル性)の植物(キンマ)の葉に包んで噛む(”キンマーク”)と、ハッカのようにスーッとして気分が爽快になるもので、清涼嗜好品として、ビルマやタイでは客がくるとこれを出してもてなすなど、古来広く常用された。

 この蒟醬(キンマ)手の塗りを高松に持ち込み発展させたのが、玉楮象谷(1806年~1869年)であるが、彼が大阪の「山中」という道具屋で、東南アジアから輸入された蒟醬(キンマ)手の塗り物を見て、すっかりその美しさに魅せられたのがきっかけと言われる。玉楮象谷は、江戸時代末期の文化3年(1806年)に鞘塗師・藤川理右衛門蘭斉の長男として、高松に生まれ、20歳の時に京都へ遊学し、この蒟醬(キンマ)塗りを始め、存清(ぞんせい)・紅葉緑葉といった中国伝来の漆塗技法も研究する。25歳で高松へ帰り、藩主松平頼恕(よりひろ)の信任を得、30歳で帯刀を許されるほど、その技術を高くかわれた。以後、松平頼恕、頼胤、頼聡の3代の藩主に仕えて多くの名品を残し、明治2年(1869年)、64歳で没している。

●貝原益軒『大和本草』にみる”キンマ”
「蛮語にキンマと称するものあり、長崎にくるシャム人の云えるには、かの国に客あれば、まずキンマービンロー(キンマーの生葉と檳椰の実)をだす。また蚌粉(ぼうふん=貝の粉)をも少し加えて食す。日本にて煙草を用ふるが如し、いま茶人のもてあそぶ香合にきんま手というものあり、これすなはちキンマービンローを入れる器、・・・・・云々」

主たる参考文献:
『漆よもやま話』(山岸寿治 著、 雄山閣、1996年6月発行)
『漆芸の旅』(冬木偉沙夫 著、芸艸堂、1986年5月発行)
『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典・香川県』(人文社、1998年7月発行)
『タイ日辞典』(冨田竹二郎 編、養徳社、1987年1月初版)

■高松松平藩
 戦国期、土佐の長宗我部元親は、阿波、伊予、讃岐へと軍団を進め、天正13年(1585年)四国統一を成し遂げる。しかし間もなく豊臣秀吉の征討軍に敗れ、新しい讃岐領主として仙石氏が入部。
 しかし仙石氏は、国内統治の失敗から天正15年(1587年)に領地没収となり、代って入国した尾藤氏も、豊臣秀吉の九州島津征討の際、軍律を守らなかったため1ヶ月ほどで領地を取り上げられた。
 その後を継いで讃岐15万石に封じられたのが、豊臣秀吉の武将・生駒親正で、居城を築いて高松城と名付け、地名もそれまでの古名から高松と改められた。高松城を本拠とするとともに、生駒氏は、西讃岐の備えとして丸亀城も築城した。
 関ヶ原の戦い(1600年)では、西軍について敗れたが、その子・一正は東軍に味方し、家督は一正に譲られ、徳川家康からは新たに讃岐17万3千石に封じられる。
 生駒氏は、初代・親正、2代・一正、3代・正俊と代を重ねたが、4代・高俊の時、家督騒動にまつわるお家騒動「生駒騒動」が起こり、寛永17年(1640年)、出羽国由利郡矢島荘(秋田県由利郡)1万石に移封された。
 その後、讃岐国は東西に2分され、寛永19年(1642年)東讃12万石の領主として、松平頼重が常陸国(茨城県)下館から封じられ、高松城を本拠とした。松平頼重は徳川光圀の実兄。以降、徳川親藩としての高松藩松平家は、明治維新まで11代・228年間続く(最後の11代藩主は松平頼聡)
 尚、西讃5万3千石の地には山崎氏が入部し、丸亀城の城主となったが、跡継ぎがなかったため、3代で絶え、代って明暦4年(1658年)、京極高知が封じられた。のち京極氏は多度津に支藩を置いた。(明治維新時の丸亀藩の最後の藩主は京極朗徹。多度津藩の最後の藩主は京極高典)

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