ラオス タイ・ラーオ族のナーガの”色と形”

岡崎信雄 タイ・ラーオ族のナーガの”色と形”

ラオス

前回、中国・雲南省・西双版納 タイ・ルー族のナーガ(龍)の“色と形(造形)”を紹介しました。今回はラオスのタイ・ラーオ族の仏教寺院に見るナーガの造形を紹介したいと思います。筆者は、1999年11月ラオスの首都ビエンチャンおよび古都ルアンパバンを訪問し、西双版納、タイ・ルー族のナーガの造形とラオス、タイ・ラーオ族の仏教寺院に見るナーガの造形が、同一文化圏の鶏頭ナーガであることを確かめるのが目的でした。シーサンパンナからラオスにかけてのメコン河の中流域には、多くのタイ・ルー族、タイ・ラーオ族が居住し、水田稲作農耕に従事していますが、いずれも信仰篤き上座部佛教徒です。アニミズムに根ざした鶏への土俗的な信仰心と仏陀信仰が融合し、鶏頭ナーガの造形が生み出されたのではないかと考えています。時代とともに移り変わるファッション性の強い“色と形”の造形文化にあって、佛教の祭祀儀礼を背景とした仏陀守護のナーガは、中国共産党中央政権のシーサンパンナ地方への支配権の確立や文化大革命、ラオスの王政に代わる社会主義革命政権の誕生など、歴史の激動を乗り越え、意外と根強く継承されているのではないかと考えています。

1.はじめに

多民族国家ラオスの人口は約620万人(2005年推定)とされ、タイ族系(タイ・ラーオ、タイ・ルー、タイ・ダムなど)、チベット=ビルマ族系(アカ、ラフなど)、モン=クメール族系、中国西南の少数民族、ミャオ(モン、Hmong)・ヤオ族など、多様な民族構成となっているが、ラオス政府は民族間の障壁をのりこえ、統一国民国家を目指しているのであろう、民族区分として低地ラオス人(ラーオ・ルゥム、Lao Loum)、中高地ラオス人(ラーオ・トゥン、Lao Theung)、高地ラオス人(ラーオ・スゥン、Lao Sung)の民族区分を採用している。この低地ラオス人に属する多数派タイ・ラーオ族は人口の約60%を占め、メコン河およびその支流域に居住し、水田稲作農耕に従事しており、上座部仏教の信仰篤き人々でもある。メコンの水の恵みに支えられた経済的な基盤は、ラーオ族の王朝でもある、かつてのランサーン王朝を支えていたのであろう。古都ルアンパバン、首都ビエンチャンにはランサーン王朝ゆかりの格式ある、多くの寺院が点在している。鶏頭ナーガの造形を求め、これらの寺院を訪ねた。なおタイ・ラーオ族の居住地域については、ラオ語の言語分布と一致すると考えられ、図1ラオスの言語分布( http://www.ethnologue.com)を参照されたい。

2.タイ・ラーオ族のナーガの”色と形”

1999年11月23日、バンコクーウボンラチャタニ(空路)、ウボンラチャタニーノンカイ(バス)、ノンカイのタイ側イミグレーションで出国手続き、バスを乗り換え、メコン川のタイーラオス友好橋を渡りラオス側のイミグレーションでアライバル・ビザを入手、タクシーでビエンチャン市街へ。7日間の日程で、ビエンチャン、ルアンパバンを訪れナーガの調査を行った。

2.1 ビエンチャンのナーガ

(1)タート・ルアン仏塔
ビエンチャン市街の中心部から北東2キロほどの所に、パリの凱旋門を模して作られたラオスの凱旋門、屋上からはビエンチャン市街を一望できるパトゥーサイ(Patousay)がある。このパトゥーサイを中心に放射状に延びるタート・ルアン・ロードを約2キロ北東方向に歩くと、黄金色に燦然と輝くタート・ルアン(That Luang)仏塔が現れる。ラオス仏教最高の寺院とされ、16世紀、ランサーン王朝により建立された当時、四方を4つの寺院に囲まれる寺院配置であったとされるが、現在は仏塔の北側にワット・タート・ルアン・ヌア(Wat That Luang Neua)、南側にワット・タート・ルアン・タイ(Wat That Luang Tai)のみを配している。

タート・ルアン仏塔への入口の階段左右には2頭のナーガが配され、4足を備えたマカラの口からナーガを吐き出す、マカラとナーガが一体化した造形である(図2、図3)。

(図2)タート・ルアンのナーガ


(図3)タート・ルアンのナーガ

ワット・タート・ルアン・ヌアの入口への階段左右には色鮮やかな2頭のナーガが配され、背後に見えるのはガルダである(図4、図5)。

(図4)タート・ルアン・ヌアのナーガ


(図5)タート・ルアン・ヌアのナーガ

ワット・タート・ルアン・タイには菩提樹の樹下で瞑想し、悟りを開いた仏陀を、多頭のナーガが守護する数体の仏陀像が安置されている(図6、図7)。

(図6)タート・ルアン・タイのナーガ


(図7)タート・ルアン・タイのナーガ

筆者がタート・ルアンを訪れたのは、ラオス最大の祭り、タート・ルアン祭の最終日の翌日、11月24日で、多くの参詣者が訪れており、寺院の境内では屋台が店を開き、祭りの余韻が辺りに漂っていた。掲載の写真には、ごみの散乱が見えるが、祭りの名残である。

(2)ワット・シーサケット、ワット・ホー・プラ・ケオのナーガ
パトゥーサイからランサーンアベニューを西南へ約1.2キロ、左手に、ランサーン王朝ゆかりの寺院、ワット・シーサケット(Wat Sisaket)、ワット・ホー・プラ・ケオ(Wat Ho Pra Keo)があるが、現在、いずれの寺院も博物館として使用されている。

ワット・シーサケットには、蒐集された多くの仏陀像が安置されているが、両翼を備えた鶏頭ナーガ(図8)で、ナーガの尻尾の部分より水を注入し、聖水を頭部より注ぐ祭具(hanglin)が目を引いた。

(図8)シーサケットのナーガ

屋根の隅棟には棟飾りのナーガ(図9)が配される。棟飾りのナーガは、一般に抽象化されたナーガの造形が多いが、具象的な造形のナーガである。

(図9)シーサケットのナーガ

ワット・ホー・プラ・ケオの仏殿(博物館)入り口への階段左右には、ナーガとマカラが一体化した造形が配され(図10)、マカラの前足が魚を捕らえる珍しい構図である。

(図10)ホー・プラ・ケオのナーガ

(3)ワット・チャン、ワット・ハイソクのナーガ
ワット・ホー・プラ・ケオからセタティラートストリートを北西へ約1キロ、左手に見えるワット・オン・トウ(Wat Ong Teu)は、16世紀、ラーンサーン王朝によりワット・タート・ルアンと同時期に建立された、格式ある寺院とされる。現在はラオス佛教、最高位の仏僧の住まいとのことであるが、この寺院を中心に隣り合うように、東にワット・ミーサイ(Wat Mixai)、西にワット・インペン(Wat Inpeng)、南にワット・チャン(Wat Chan)、北にワット・ハイソク(Wat Haisok)があり、ワット・チャンにおいて鶏頭を具象的に造形化した、興味あるナーガを見ることができた。

ワット・チャンの仏殿の前面には、悟りを開いた仏陀を守護する多頭の鶏頭ナーガ(図11、12)が配され、仏殿の入り口、階段の左右には赤、黄、緑、白に彩色された、マカラとナーガが一体化した造形の鶏頭ナーガ(図13)が配されている。マカラの前足が魚を捕えており、鶏頭の表現が具象的である点を除けば、ワット・ホー・プラ・ケオのナーガと同一構図である。鼓楼は中華風構図の玉戯れる2頭のナーガ(図14)が守護する。

(図11、12)ワット・チャンのナーガ


(図13)ワット・チャンのナーガ


ワット・チャンのナーガ

ワット・ミーサイの仏殿への階段左右には多頭の鶏頭ナーガ(図15)が配されているが、ルアンパバン、ワット・ノンのナーガのデザインと類似した構図である。

(図15)ワット・ミーサイ

2.2 ルアンパバンのナーガ

1995年、ユネスコの世界遺産に登録された古都ルアンパバンは、本流のメコン河と支流のナム・カーン川が合流する盆地にある。東西3km、南北1kほどの小さな町に、総数約60の寺院があるとされ、筆者はナーガの造形を求め、ワット・シェントーン(Wat Xieng Thong)をはじめ、ワット・マイ(Wat Mai)、ワット・ノン(Wat Nong)、ワット・ホーシェン(Wat Hoxieng)、ワット・マハタート(Wat Mahatato)、ワット・タートルアン(Wat Thatluang)、ワット・ロン・コーン(Wat Long Khoun)、サンティチェディ(Santichedi)など20数ヶ寺を訪れた。上記の寺院は、境内守護、仏殿守護、仏殿装飾の鶏頭ナーガを観賞できた寺院である。獅子の守護する仏殿(ワット・アハム、ワット・モノロム)や、マカラの守護する仏殿(ワット・ファバン、ワット・セーン)もあるが少数である。

守護神の造形アートを観賞するのは、筆者にとって楽しみの一つであるが、獅子、マカラの造形はタイやミャンマーに比べると、素朴との印象である。鶏頭ナーガについては、タイ族の伝統文化である鶏文化が背後を支えているのであろう、造形、彩色ともに精緻にデザインされ、造形アートとして見る人を楽しませてくれる。

(1)ワット・シェントーン
16世紀、ルアンパバン王家の菩提寺として建立された、三重の屋根が軒に向かって低く流れるように作られている典型的なルアンパバン様式の寺院として有名である。(図19)は王室の葬礼用柩車、先頭部を装飾するナーガである。

(図19)ワット・シェントーン

(2)ワット・マイ
仏殿、柱飾りのナーガの造形(図16)、扉や壁面に描かれ釈迦の説話やラーマヤーナの黄金のレリーフ(浮彫)など、絢爛豪華な寺院装飾は、ルアンパバン観光の目玉となっている。

(図16)ワット・マイ

(3)ワット・ノン
ワット・ノンの沿革は18世紀の創建、ルアンパバンのメインストリート、Xiengthong Roadの一辻西の裏通に面した、規模の大きな寺院建築である。ルアンパバン王室とは無縁であったのか、旅行書に詳しい紹介は見当たらないが、仏殿前面入り口への階段には、多頭のナーガ(図18)が、仏殿側面の入り口にもナーガが配され(図17)守護している。寺院装飾や、その彩色は一見に値する。

(図17)ワット・ノン


(図18)ワット・ノン

(4)ワット・マハタート
16世紀、ランサーン王朝による創建、ランナー様式を踏襲しているとされ、格式ある寺院である。仏殿は鶏頭ナーガ(図20)により守護される。

(図20)ワット・マハタート

(5)ワット・ホーシエン
18世紀の創建、ワット・マハタートの北側に位置し、境内を接し、小高い丘の上に建っている。丘に登る参道には銀白色のマカラと一体化した多頭のナーガ(図21)が配され、仏殿入り口も同様彩色の多頭のナーガ(図22)により守護されている。

(図21)ワット・ホーシエン


(図22)ワット・ホーシエン

(6)ワット・タートルアン
ルアンパバン王室と関係の深い寺院で、ながらく王室関連の祭祀儀礼を執り行ってきた、格式ある寺院である。黄、緑により彩色された多頭のナーガ(図24)が参道を守護している。仏殿のナーガによる守護は見られない。仏殿入り口の扉にはヒンズー教や佛教の守護神が画かれ、ナーガ(図25)はその一例である。

(図24)ワット・タートルアン


(図25)ワット・タートルアン

(7)ワット・ロンコーン
メコン川の対岸にあり、王位継承の前、瞑想のために、一時隠棲するための由緒ある小さな寺院。筆者が興味を持ったのは、棟飾りのナーガの造形(図23)である。ビエンチャンのワット・シーサケットに見るナーガは、具象的な鶏ナーガの造形である。それに対し多くの寺院に見るナーガの棟飾りは抽象化され、鶏としての原形をとどめていないケースが多い。具象と抽象のちょうど中間的な造形として取り上げた。

(図23)ワット・ロンコーン

(8)サンティチェディ
ルアンパバン市街の中心から東へ約2キロ、小高い山の頂きにある、ビルマ様式かインド様式か筆者にとっては判然としない、コンクリート建築の寺院がある。インドから来た僧が開いた寺院とのことであったが、その真偽は定かではない。この寺院の内壁には、鶏ナーガ(図26)のジャータカが画かれている。この寺院への途中には、小規模ではあるが優美なルアンパバン様式の寺院が点在しており(Wat Phuon Phao, Wat Sakem, Wat Pa Gna Thup)、市街の寺院とは異なり、人影もなく、静かな雰囲気で仏陀の世界を堪能できる。

(図26)サンティチェディ

3.まとめ

筆者がラオスを訪れた1999年は、ラオス政府が外貨の獲得をめざし、観光客の誘致に力を入れ始めた時期にあたり、1999年、2000年の両年は「ラオス観光年」の年でもあった。1995年、ルアンパバン市街の世界遺産登録を契機に、ビエンチャン、ルアンプラバンにおいて、観光資源としての寺院の修復、改修にかなりの力が注がれたのであろう、特にルアンプラバンにおいては、寺院建築の修復だけでなく、観光の目玉として、境内の整備、寺院外装の装飾や、彩色にも新たな試みが感じられた。

Googleのイメージ検索で、ワット・ノンの改修前の画像(多分1995年以前の撮影であろうか)を見つけたが、仏殿入り口のナーガの造形は見当たらず、図17、18に示すナーガは、あらたに設置されたものであり、仏殿外装の鮮やかさに欠ける彩色は、より鮮やかな彩色へとデザイン変更されているのが目を引いた。

鶏頭ナーガの造形について云えば、一見して鶏頭の造形であると認めることのできる具象的な造形と、造形の抽象化により、アートとしての造形美を追求したと思われる2種類に分類されるが、ワット・チャンやサンティチェディのナーガは前者に、その他の造形は抽象化に程度の差はあるが、いずれも後者に属する鶏頭ナーガであろう。ただし造形の核心部である鶏については、タイ族の伝統が守られており、時代感覚にあわせ、造形・彩色は進化してきたのではないかとおもわれる。ワット・シェーントンの境内で僧侶と立ち話をしたが、シーサンパンナ、タイ・ルー族の鶏頭ナーガに話がおよぶと、急に親しみの情をあらわし、ルアンパバンのナーガも鶏であると語っていた。

 
参考資料
1, Old LuangPraban, B.Gosling, Oxford University Press (1996)
2. The Lao Kingdom of Lan Xang :Rise and Decline, M.Stuart-Fox, White Lotus Press (1998)
3. Laos, J.Cummings, Lonely Planet Publications (1998)

筆者がラオスを訪れた1999年は、日本政府の無償資金協力(ODA)によって完成した、ビエンチャンのワッタイ空港新ターミナルビルが利用され始めた年で、早朝、ビエンチャンからルアンパバンへ移動のため、ホテルのリムジンで空港まで送ってもらったが、「日本の援助のおかげで立派な空港ビルが出来ましたよ」と運転手に言われたときは、率直に、なんとなくうれしい気分になったことを記憶しています。ラオス政府は外貨を獲得するため、1999年と2000年、「ラオス観光年」と名付け、観光客誘致に力を入れ始めた年でもあり、その効果あってか、1999年のラオスへの観光客は60万人を突破し、95年のおよそ2倍になったそうです。2003年の統計では、約64万人(日本人1.8万人)、2004年は約89万人(日本人2.1万人)と増加傾向にあるようです。タイ=ラオス友好橋でアライバルビザを入手できるようになったのも、この年であったとの記憶です。その後、ビエンチャンやルアンパバンの町の様子も大きく変わったのではないかと思われますが、Googleのイメージ検索による、2005年撮影の画像では、ルアンパバン市街の整備が精力的に行われている様子で、アレ?こんな所にナーガや女神像が、こんな所に寺院のゲートが、といった光景が見られ、新しい、奇抜な鶏頭ナーガの造形アートも鑑賞できるのではないかと期待しています。

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