2000年1月掲載
▼哀牢夷
古代雲南省の大理地方には、前漢時代から伝わり、後漢書、水経注、華陽国志などの漢籍に収められている「哀牢九隆伝説」がある。これは、九龍伝説とも言われ、龍に関する感性伝説である。
そのモチーフは、「哀牢山ふもとに住む沙壹という名のある婦人が、水中の沈木に触れて感性し、10人の男子を産んだ。沈木に化していた龍が水中から出てきた時、九人の子供は龍を恐れ逃げたが、ただ一人、末子は逃げずに龍の背に座り、龍から頭を舐められた。そのことで『九隆』と名づけられ、後に長じて王となった」というもの。
この伝説における龍の登場そのものも大変興味深いテーマであるが、「沙壹という哀牢夷の後裔である」と、後の南詔王国の蒙姓部族が称していることが、南詔タイ族説や哀牢夷タイ族説の議論と関連し、面白い展開を生んでいく。
後に長じて王となる九隆(ジュウロン)の名の由来も、哀牢人の言葉とあわせ、古代漢籍で紹介されている。『後漢書』では次のように記されている。「沈木が龍に変わって現れたとき、哀牢夷である沙壹という名の女性と、龍の子供である9人の子供は逃げたが、末子は龍の背に乗り、龍はその子の頭を舐めた。沙壹は、鳥のような声で話し、「背中」を「ジュウ」と呼び、「座る」という動作を「ロン」と言うので、この末子の名前は「ジュウロン」と名づけられた。九隆は、父である龍に頭を舐められたので、兄たちから賢いと信じられ、長じた後、王になった。附近に10人の娘をもつ夫婦がおり、この娘たちを九隆兄弟が娶り、これらの子孫がそれぞれの邑落の小王となった。」
哀牢がタイ族の祖先であったと主張する学者には、この2つの言葉がタイ語と関係があるという観点から、解釈しようとする人がいる。哀牢タイ族説では、他に龍の入れ墨や服装、家の建て方など、哀牢夷の風俗・習慣の記述にも典拠を求めようとしている。
雲南古代の大理文化を担った哀牢夷は、チベット・ビルマ語族のロロ族であるとする説もある。哀牢夷の民族系統や、哀牢後裔伝説と関連した南詔の民族系統の議論は、別途紹介する。
尚、藤澤義美氏の著作『西南中国民族史の研究』(大安、1969年刊))では、メコン圏の建国説話に共通して、王権の本源を水精、特に龍に求める思想があったことを、山本達郎氏が戦前に指摘していると、紹介している。
●哀牢夷
雲南古代民族の呼称で、西南夷の中の支系。『華陽国志』に最初にこの言葉が記載されている。秦漢の時代には、現在の滇西哀牢山中(雲南省西部の永昌盆地を中心にした地域)に居住していた。前漢時代、この地にも一旦は郡県が設けられ、後漢代に入り、哀牢王・柳貌が55万人余りを率いて内族を求めた。明帝永平12年(紀元69年)、後漢朝(明帝)は、新たに哀牢と博南の2県をこの地(現在の保山市と雲龍県境)に設置し、益州郡6県と合わせ、新たに永昌郡を設置した。
この民族は文身(入れ墨)をし、貫頭衣を着るなどの特徴を持ち、九龍神話伝説を伝え、龍をトーテムとしている。*トーテム・・・古代原始社会において、種族や氏族の共同体が、自らの存在の起源とみなす、動物や植物、或いは物を神聖視すること)
哀牢の民族系統については意見が分かれ、濮越系統と関係があるとするものや、南詔の祖先であるとするものがある。