ラオス公式民族分類の3系

2001年11月掲載

居住地の標高差によるラオス公式民族呼称の3分類(ラオ・ルム、ラオ・トゥン、ラオ・スーン)

 ラオスの国民は総称してラオ(ラオス人)と呼ばれ、ラオス人民民主共和国の全人口の約半数を、タイ語族系のラオ族が占めるが、ラオスは、68とも言われる民族集団(クムソンあるいはパオソン)から構成される多民族国家。

 現在ラオスで公式に使われている大きく分けた民族グループの呼称が、ラオルム、ラオトゥン、ラオスンの3グループである。これは、居住域の標高差による公式民族分類で、居住地の高低からラオスの住民を3分類している。これはあくまで大きく分けたグループの呼称であって、実際の民族の数は数十に及ぶ。言語上、ラオ・ルムは、タイ語系、ラオ・トゥンは、モン・クメール語系であり、ラオ・スーンには、ミャオ・ヤオ語系とチベット・ビルマ語系が含まれる。

 1,000キープ紙幣にも、この3分類のラオ女性が刷られているし(下左。左からラオ・スーン、ラオ・ルム、ラオ・トゥンの順に並ぶ)、ラオス政府刊行物などにも、左上のように、3分類の女性(左からラオ・トゥン、ラオ・ルム、ラオ・スーンの順に並んでいる)が、登場する。

■ラオ・ルム(低地ラオ人)
 ラオルムの主となる民族がラオ族。ラオ族が話すラオス語が、ラオスの国語となっているように、ラオ族はラオスで人口の半分以上を占め、一番中心となっている民族。ラオルムの人たちは、ラオスの政治・文化の主流を担っており、彼らの話す言葉(ラオ語)がラオスの国語。ラオスのタイ族は細別すると、ラオ、プアン、タイ・ダム(黒タイ)、タイ・カーオ(白タイ)、タイ・デーン(赤タイ)、プータイ、ニュアン、ルー、ニョー、セーク、ヤイなどに言語上分かれる。山地に住むタイ系諸族も、ラオ・ルムに含まれている。

 ラオルムの人々は、メコン川沿いの平野などを中心に住み、水田で稲作を行う。主食はもち米。家屋は、高床の家。仏教徒。

■ラオ・トゥン(山腹ラオ人)
 従来、ラオ人やタイ人から<カー(従僕)>、ヴェトナム人には<モイ(蛮人>として俗称されてきた先住オーストロアジア語族(南亜語族)の総称。ラオスの地の先住民族と考えられているが、後から入ってきたラオルムに追いやられて、山の中腹に住むようになったといわれる。「トゥン」は「上」の意味。

 北ラオスの南亜語族は、カム族のほか、マル(ティン)族、ムラブリ族、ピュオ族、ポン族、ハット族などカム系と、ラメット族、カオ族などパラウン・ワ系に言語から分類されている。南ラオスの南亜語族は、ソー・スエイ系、ラヴェン・ブラオ系、バナル・セダン系に言語学上分けられている。

 ラオ・トゥンは伝統的に焼畑移動耕作、集会所を中心とする環状集落、ロングハウス、水牛供犠を特色とするが、ラオルムとラオスーンの社会に挟まれ、両者から政治的、経済的に搾取されてきた。

■ラオ・スーン(高地ラオ人)
 主に19世紀以降から中国南部、ヴェトナムより移住してきたシナ・チベット語族のモン族(Hmong)とヤオ族などを指す。「スーン」は「高い」の意味。

 この3グループの中では、人口的に最も少ないが、ラオ・スーンのなかで、最も多いモン族、ラオスの中での個別の民族集団ととしては、数の多い民族である。主にラオスの中部から北部の、山岳部でも高地に暮らす。山で焼畑による稲作。精霊信仰。家は土間。

引用参考文献:
『もっと知りたいラオス』(綾部恒雄 担当執筆、1996年7月)
『世界民族問題事典』(平凡社)
『地球の歩き方フロンティア ラオス』(ダイヤモンド社、1991年1月)
『ラオス すてきな笑顔』(安井清子、NTT出版、1998年12月)

●ラオ(人)
 東南アジア大陸部のタイ、ラオス、ヴェトナム、ビルマに居住するタイ語族系の民族集団。最大の拠点はタイで、東北地方を中心にタイの全人口(5900万、1993年)の約3分の1を占める。ラオス人民民主共和国では全人口(460万、1993年)の約半数を占める主要民族。北タイでコン・ムアン(タイ・ユアン)と自称する人々、中国雲南省のタイ・ルー族をも含む。

 一般に、平地及び高原で水稲耕作を営み、蒸した餅米、魚の塩辛を常食する。上座部仏教を信仰し、村落では住民による仏教寺院の建立と出家活動が盛んである。

 もともと<ラオ>は<人>を意味するが、先住民(カーと総称)の勝利者としてランサン王国を建てた当時のラオ人は、自らを<タイ>と呼んでいた。<ラオ>はむしろ主権者、偉大なる権勢者など社会的地位を示す語として使用された。後に、同国を属国として統治しはじめるシャム側領主は、自他を区別すべく彼らを<タイ>とせず、今日にも残る軽蔑の意を込めて<ラオ>と呼ぶように成ったために、ラオス側のラオ人も<ラオ>を自称するようになったとされる。

 もっとも、19世紀末から20世紀初頭にかけてメコンを挟む2つのラオ人社会では、シャム政府とフランス植民地勢力に対抗する千年王国論的運動が起こり、同一の民族としてのラオが強く意識された。だが、後に国境を挟んで異なる歴史的・社会的経験を経た両者の間には、旧世代の知識人の一部を除いて、そうした汎ラオ主義は衰微しつつある。かつてタイ・ラオを自称した東北タイのラオは、1世紀に及ぶバンコク政府のタイ化政策の結果、他称であるイサーン(東北地方人)を対外的なアイデンティティとしつつある。他方、ラオス人民民主共和国のラオも、タイ側のラオをタイ・イサーン(東北タイ人)と呼び、かつてのラオではないことを喧伝する。

 尚、現在のラオスの民族公称の1つであるラオ・ルム(低地ラオ)には、ラオ人のみならず、山腹に住む白タイ、赤タイ、非仏教徒の黒タイ族などのタイ系所属も含まれている。

『世界民族問題事典』(平凡社、1995年9月)より引用(林行夫氏執筆)

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