金雲翹(キム・ヴァン・キェウ)

2001年9月掲載

悲劇のヒロインの半生をチュノムで著した長編韻文詩で、ベトナム古典文学の最高傑作

  阮攸(グエンズー:1765年~1820年)の作で、ベトナムの字喃文学屈指の傑作とされる長編韻文詩物語。「翹伝」「金雲翹新伝」「断腸新声」その他いくつかの呼び名がある。書かれた時期については、18世紀末或いは19世紀初とされていて、明らかではないが、19世紀初の説が有力である。六八体(「伝」)という形式による全編3254行の長編叙事詩で、六八体とは、六言の句と八言の句が、腰韻と脚韻を踏みながら、交互に交代していく詩形式。

 物語は、薄幸の佳人・王翠翹(ヴォントゥイキェウ)の数奇な運命と彼女を取り巻く人物たちの人間模様を描いたもので、『金雲翹』の題名は、この物語のヒロインの恋人であるキム・チョン(金重)の名前の一字「金」、ヒロインの妹でキム・チョン(金重)の妻になるトゥイ・バン(翠雲)の名前の一字「雲」、それにヒロインの名であるトゥイキェウ(翠翹)の一字「翹」をとって、名付けられている。

 阮攸(グエンズー)の創作ではなく、青心才人の筆名による作者不詳の中国清朝初期の通俗小説『金雲翹伝』が原作。阮攸は、この通俗小説をもとに、字喃にて、ベトナム特有の六八体詩3254行に、時代背景、登場人物、中国が舞台と原作そのままに翻しているが、作中に文学的な格調を保ちながらベトナム土着の口承文芸である諺のようなトゥックグー(「俗語」)やカーザオ(「歌謡」)を取り入れ、民衆の野卑な話し言葉なども上手に盛り込んでベトナム的な色彩の濃い作品に作りあげていることが、高く評価されている。

 物語の舞台は中国・明朝の世宗(1522年~66年)の嘉靖年間の開封。王氏の娘の評判の美人姉妹の姉トゥイキェウ(翠翹)が本作品のヒロイン。王翠翹(ヴォントゥイキェウ)は、散歩に出かけたとき、桃花真っ盛りの野で、弟・王観の友人で郷里第一の秀才キムチョン(金重)と出会い、互いにこころを通わせるようになり、やがて結婚を誓い合う。しかし、キムチョン(金重)は彼の叔父が亡くなり、その弔いのために彼女の元を離れて遠い地に旅たち、さらに絹商人に陥れられて、トゥイキェウ(翠翹)の父・弟は首かせをはめられ、執達吏に家財一切をもっていかれてしまう。家族の危機を救い父たちの釈放金を手に入れるため、キムチョン(金重)との愛をあきらめ、馬監生(マ・ザムシン)と言う女衒の男に身を売る。監生(ザムシン)は、トゥイキェウ(翠翹)を臨淄の妓楼に売り、絶望したトゥイキェウ(翠翹)は自殺を図るが、失敗する。

 やがて客として知り合った若い商人トク・キタム(束奇心)と愛し合い、キタムに身請けされるが、キタムの父が息子を騙したと激怒しトゥイキェウ(翠翹)を役所に訴える。法官の理解を得ることができ、キタムとの仲を許されるが、キタムには正妻クァントがおり、トゥイキェウ(翠翹)を妾にした事を知り、復讐を企て、クァントは臨淄のトゥイキェウ(翠翹)の住居を焼き、キタムの郷里の錫県の自宅にトゥイキェウ(翠翹)を運び込み自分の召使いにし、凄惨ないじめを行なう。トゥイキェウ(翠翹)が焼死したものと思っていたキタムが1年たって臨淄から錫県の自宅に戻って正妻クァントの部屋で働くトゥイキェウ(翠翹)を見て愕然とする。正妻クァントの凄惨ないじめから、ある夜、トゥイキェウ(翠翹)はクァントの邸を遂に逃げ出し、流浪の果てに尼庵にたどりつく。尼層のザックズエン(覚縁)は哀れに思って面倒を見てくれたが、悪人にだまされて台州に連れて行かれ、再び遊郭に売られてしまう。

 運命をあきらめたトゥイキェウ(翠翹)のもとに現われたのが、偉丈夫トゥハイ(徐海)で、2人は恋に落ち、1年後トゥハイ(徐海)は大将軍に出世し、トゥイキェウ(翠翹)を正夫人として迎えた。トゥハイ(徐海)の軍勢は盛んで、浙江、福建など沿海地方を支配する。これに対し明の皇帝は、胡宗憲を将軍としてトゥハイ(徐海)を討つことを命ずる。トゥイキェウ(翠翹)は、官軍と和を結び戦いを避けようとトゥハイ(徐海)を説得するが、トゥハイ(徐海)は官軍のだまし討ちにあって戦死してしまう。トゥイキェウ(翠翹)は官軍につかまり、胡宗憲に一夜妻を強いられた後、部下の豪族の妻に下げ渡される。豪族のもとへ送られていく途中、トゥイキェウ(翠翹)は、船から銭塘江に身を投げるが、尼層のザックズエン(覚縁)に救われて介抱される。

 一方、昔の恋人・キムチョン(金重)は叔父のとむらいをすませて、開封に戻ってトゥイキェウ(翠翹)の妹のトゥイ・バン(翠雲)と既に結婚していたが、トゥイキェウ(翠翹)の行方を探していた。尼層のザックズエン(覚縁)に会い、15年ぶりにトゥイキェウ(翠翹)とキムチョン(金重)は再会するが、2人は心のみ結ばれた親友として、トゥイキェウ(翠翹)は穏やかで静かな後半生を送る。

 原本は、嘉靖年間(1522年~1566年)の倭寇討伐の実録に見える征倭淅江巡撫総督・胡宗憲に討たれた倭寇の頭目・徐海と、愛妾・王翠翹の周辺に取材した通俗小説。グエン・ズーの六八体長編詩では、苦界から翠翹を救った徐海が民衆の味方で、胡宗憲は冷酷な敵役として歌われている。

 邦訳は、講談社から竹内与之助氏による訳『キム・ヴァン・キェウ』(1975年発行)、大学書林から『金雲翹新伝』(竹内与之助訳注、B6判208頁)が発行されている。尚、桜井由躬雄氏の『ハノイの憂鬱』(めこん、1989年初版)では、各章のタイトルに『金雲翹』の詩句が絵とともに使われている。また、ベトナム文学研究者の加藤栄氏(『虚構の楽園』の訳者)によると(アジア理解講座「ベトナム文学を味わう」)、この作品の原作である中国の青心才人の『金雲翹伝』は、同時代の日本にも伝えられ、江戸の戯作者、曲亭馬琴や山東京伝が『風俗金魚伝』や『桜姫全伝曙草子』という翻案小説を書いているとのことだ。

主な引用・参考図書
『物語ヴェトナムの歴史』(小倉貞男 著、中公新書、1984)
『アジア理解講座 1995年度第2期「ベトナム文学を味わう」報告書(国際交流基金アジアセンター)
『ベトナムの事典』(同朋舎) 川口健一氏 執筆担当部分
『東南アジアを知る事典』(新訂増補版)(平凡社、1999年3月)  川本邦衛氏 執筆担当部分

■字喃
漢字の偏旁を独自に組み合わせて作ったチュノムによるベトナム語表記法
『字喃字典』(竹内与之助著、大学書林1988年5月発行)がある。

■字喃文学
字喃によって書かれたベトナム語(国音)文学。チュノムが文字として定着し始める13世紀に起源を求めることができるが、興隆を見るのは、18~19世紀のタイソン・グエン朝前半時代。

■阮攸(グエンズー)
1765年~1820年
レ朝末期、グエン朝初期の官僚で、ベトナム古典文学の傑作「キムヴァンキエウ」の作者。
ゲティン省ギスアン郡出身で、父親は、レ朝末期の宰相、グエン・ギエム。
1784年秀才試験に合格、官途に就くが、1789年、後レー朝(1428年~1789年)滅亡。隠遁の生活を送るが、グエン朝(1802年~1945年)初代皇帝ザーロン帝(在位1802年~1820年)の懇請を受け出仕する。知県、知府を経て、1805年東閣大学士に昇格。1813年には勤政殿学士に昇進、正使として中国に赴く。1815年礼部右参知。
1820年、グエン朝第2代皇帝ミンマン帝(在位1820年から1841年)の命を受け再度中国に赴く前に病を得て逝去した。

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