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第4話 アジアへ行く日本人・日本へ来たアジア人
2000年4月下旬号掲載
コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」
~地域と時代を越えて~ 海の彼方に日本文化の原像を想う
南インド(タミル)・扶南・チャンパあたりから、百済・加羅・倭国の往来と、その時使用された外交語は果たして何語?
タイのワット・パー(森林寺)は外国人の出家を受け入れ、きちんと一人前の小乗僧にしてくれる所で、オレンジ色の衣に身を包んで、今日も托鉢や瞑想をおこなう欧米人僧や日本人僧のほとんどはこのお寺の出身です。
たとえば岩手県出身のカウェーサコー師や、奈良県出身のニャラナード師らの日本人僧が、タイのまずしい人に手を差し伸べる活動をしたり、バンコクの日本人を対象に講演をしたりするのは、やはり大乗国の国民性によるものでしょう。欧米人僧たちは、むしろパーリ語経典の研究に没頭して、本を書いたり瞑想に浸りきったりしており、やはりキリスト教の神と人との関わり合いに似た関係を、経典や修行との間に築いているのかもしれません。
小乗仏教はパーリ語の世界で、これを習得すればタイ・ビルマ・ラオス・カンボジア・スリランカにひろがる小乗世界のどの国の僧とも、パーリ語で会話ができるといわれています。ナモータッサ・パカワトー・アラハトーというパーリ語のお経は、この世界に共通のもので、日本人の耳には、コンペイトー・カリントーという感じに聞こえます。音感から言えばパーリ語の発音は日本語そのものといってもいいほどです。それがまた欧米人には神秘的な音に聞こえるのかもしれません。
ちかごろでは、タイのパークナム寺やミャンマーのチャイティヨー寺にも、僧形の日本人が瞑想に励んでいるというウワサですが、宗教の世界にはもともと国境はなく、たとえばカンボジアのクメール王国の王子がスリランカの寺院で修行し、やがて高名な僧となってビルマの王室に招かれるといった話もあります。もっと古くは8世紀の中ごろに、チャンパ王国からボーディセーナという大乗僧が中国経由で日本に渡り、行基上人について日本の仏教界の僧正の位にのぼって「バラモン僧正」と呼ばれたことがありました。チャンパ王国は4世紀のバドラヴァルマン(シヴァ神の守護者)王の時代に一気に興隆した国です。
ところで東南アジアと日本の通交の始まりは、チャンパ僧の渡来よりさらに200年ほど早く、542年に百済の聖明王が「扶南の財物と奴二口」を倭国に献上してきたことが『日本書紀』に記されています。扶南という国は南インドのタミル人がカンボジアのクメール人を支配した殖民王国で、扶南という国名は学界ではクメール語のPNUM(丘)といわれていますが、私はむしろタミル語のPUNAM(陸稲・雑穀栽培に適した高地)ではないかと考えています。
扶南はヤマタイ国のあった時代から中国と通交していた古い国で、「奴二口」とはクメール人の奴隷であったと思われます。注目されるのは、このときこれらの献上物を持ってきた百済の3人の使節で、正使は百済人、副使は物部マガムとコツコルという名前の人です。物部氏は倭人と百済人の混血で、百済語と倭語が話せたものと思われます。もうひとりのコツコルは、これはタミル人ではないかと思います。コツコルはタミル語でクドゥ(秘密)・クル(導師)と読み解くことができるからです。
このクドゥクルは、おそらく百済に住みついて扶南との通交ルートにかかわっていたタミル人と思われ、前にも一度倭国に来ております。彼の役割は倭国の状況視察(前回)と、扶南の外交ルートの東への前進(今回)にあったのではないでしょうか。彼はタミル語と百済語が話せたものと思われます。
現代の外交の世界はまず英語が共通語でしょう。古代の百済・加羅・倭国の外交語はおそらく百済語だったのではないでしょうか。そして古代の南インド・扶南・チャンパ・ジャワあたりではタミル語が外交語になっていたのでは、とアタリをつけているのですが。