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第10話 外洋船の系譜
2000年11月号掲載
コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」
~地域と時代を越えて~ 海の彼方に日本文化の原像を想う
西アジアから南インドに伝わる造船・航海技術と、呉・越の水軍や越族、更には倭国の海人族との繋がり
『日本書紀』によれば、応神天皇が諸国に号令して海人部を定め、とくに伊豆の国に対して長さ十丈の大船を建造させてカラノと名づけた記事が見えます。十丈の船、堂々30メートルの大船です。さらに26年の後、老朽化したカラノの船を焼いて500籠の塩をつくり、諸国に賜ったところ、諸国から船が献上されて500隻の船が武庫の港に勢ぞろいした、と書紀は伝えています。
4世紀末期の応神天皇が、海人族をほぼ意のままに支配して大船をつくらせ、さらに500隻の大船団を編成させたのが事実とすれば、この造船技術はどのようにして倭国に伝わったのでしょうか。
外洋船が発達するのはごぞんじのようにフェニキア人の商船や、ペルシャとギリシャの海戦に見られるように地中海世界ですが、アジアにおいては紀元前7世紀にバビロニアが南インドを経由して楚の国と通交しています。接触点は長江の下流あたりでしょう。この地域は後に、紀元前6世紀には呉の国が支配し、紀元前5世紀には越の国が支配し、紀元前4世紀には再び楚の国の支配に戻っていますが、南インドからの外洋船はしばしば到着していたようで、中国の古典には「蛮夷はおよそ海舟を舶という」という一節を伝えています。蛮夷とは楚・呉・越などの国をつくった南方の蛮族のことで、彼らは海に浮かぶ大船を「舶」と呼んだ、というのです。「舶」はバクあるいはパクと発音されたものと思います。
外洋船の技術(造船・航海の技術)は西アジアから南インドに伝わり、かなりはやい時代からベンガル湾より東の海域では南インドすなわちタミル人の大船が往来するようになりました。大船のことをタミル語でカッパルと言いますが、この言葉はマレー語・インドネシア語のカパル(大船)、同じくクメール語のコパル(大船)の語源になっています。タミル語のカッパルの発音は、「カ」を弱く「パ」を強く発音するので、仮にカッパルという言葉を1音節の漢字になおそうとした場合は、「カ」の音を捨てて「パ」の音を採るといった操作が加えられるかもしれません。
楚・呉・越の人たちがタミルの外洋船が渡来してきたのを見て、「このでかい船は何というんだ」「カッパルというんだ」などとタミル人の船員と会話が交わされたとしたら、カッパルの「パ」の音を基本に「舶」(バク・パク)という漢字が楚・呉・越の人たちによって作られたと想像することができます。秦の始皇帝が漢字を統一するまで(現在の漢字は実質的には「秦字」である)、北の晋や燕や斉の国、南の楚や呉や越の国には、それぞれの土着語の発音を持つ独自の漢字が使われていたのですから。
呉王夫差(紀元前496-473)の時代、呉は南方の強国となり、将軍徐承は水軍を率いて山東半島の斉の国を襲撃、ここに土着の外洋船の船団がはじめて東アジアの歴史に現れます。これらの大船を建造し操船したのは、タミル人の技術者というよりも、土着の呉の人・越の人だったでしょう。夫差の時代になるまでの呉の百年間は堂々楚に対抗する国だったし、南インドからしばしば来航する大船を「舶」と呼んだのは呉の人たちのあこがれの表れでしょう。タミル人の技術者から技術移転を受ける心理的な下準備、また、ときは戦国時代、西の大国楚や北の大国晋と覇権を争う際の、水軍という画期的な軍事力の採用は内陸国家の発想からは生まれず、また同じ海洋に面していても南インドと通交のない斉の国にできることではありませんでした。
呉の国の主要民族は内陸民族の苗族だったという説があります。また越王勾践が呉を滅ぼしたとき、越の水軍は呉の国の北側に兵員を送って呉の退路を断って勝利を収めたといわれます。不思議なことに呉・越の戦いに呉の水軍が出動した気配はありません。とすると、斉の国を襲った呉の水軍も、呉の後背地に兵を送った越の水軍も、造船・操船は越族の人たちではなかったのでしょうか。呉王夫差の時代、勾践をはじめ越族は呉の支配下にあったし、勾践立つや越族の水軍はこぞって彼についたものと思われます。民族の絆ですね。この紀元前5世紀前半の時代、呉・越の水軍の登場をもって僕は海上権力を持った海人族が誕生したと考えるのですが。