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阿倍仲麻呂(698年~770年)とベトナム
第4回 2000年4月下旬号掲載
メコン圏に関わった日本人歴史人物
遣唐使として入唐するが、遂に帰国を果たせなかった阿倍仲麻呂とベトナムとの関係は?
「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌は、阿倍仲麻呂が詠んだ望郷の歌として知られているが、この歌は、中国の地で詠まれた歌だ(古今和歌集・巻第9羇旅歌に「唐土んて月を見てよみける」としておさめられている)。在唐36年の阿倍仲麻呂は、753年の冬、第10次遣唐使団の帰国に際し、中国側の使節として同行がようやく許され、唐の都・長安から揚州に下り、船出をする長江南岸の黄泗浦(江蘇省鹿苑)でこの歌を詠んだと伝えられる。しかしながら、阿倍仲麻呂は故郷三笠の山にかかる月を見ることはできなかった。帰国途上の乗船した遣唐使船が遭難してしまうのだ。
阿倍仲麻呂は、文武天皇2年(698年)中務大輔・阿部船守の長男として大和の国に生まれ、幼少より秀才の誉れ高く、若干19歳で第8次遣唐使団(一行総勢557人。下道真備や僧玄昉らが同乗。南まわり航路)の一員として開元5年(717年)長安に到着する。入唐後、太学(文武官5品以上の子弟の最高級の教育機関)で学び、日本人でありながら超難関の科挙の進士科の試験にも合格を果たしてしまう。そして唐の高等官として、725年洛陽の司経局の校書(典籍を扱う役職。正9品下)への任官から、728年長安で左拾遺(従8品上)、731年左補闕(従7品上)、さらには秘書監、従三品、国立図書館長とより高い地位にと昇進していく。
日本人でありながら超難関の科挙に合格し、皇帝・玄宗(唐の6代目皇帝。685年~762年、在位712年~756年)の厚い信任を得ながら大帝国での高い地位に引き上げられるというのは、個人としての能力と魅力が計り知れないものであったことだろう。国や組織の威を借りるわけでもなくこうして個人として大国・唐に認められ異国で活躍した小国(当時)の日本人がいたということは素晴らしいし、また個人の才能で異国人でも抜擢する当時の唐の懐の広さや長安の国際都市ぶりも注目に値する。
こうして異国で玄宗皇帝の信任も得て出世を重ねていった阿倍仲麻呂も、56歳の高齢になり、ようやく上述の如く、「中国側の使節」という形での一時帰国とはいえ、祖国・日本に戻れることになったわけだ。しかしながら、無情にもこの船団は、阿児奈波島(沖縄本島)に到着後、北の奄美に向う途中で暴風雨に遭遇。阿倍仲麻呂が大使の藤原清河らとともに乗った第1船だけは遠く南に押し流され、驩州(現在のベトナム北部・ヴィン附近)に漂着する。
ベトナムに漂着した阿倍仲麻呂たち一行は、土地の盗賊に襲われたりして、170余人が死んだといわれる。しかしながら阿部仲麻呂と藤原清河は奇跡的に生き抜いて、755年6月、長安にたどり着く。阿部仲麻呂たちは、既になくなったと伝えられていたため(交友のあった唐の詩人・李白(701年~762年)は遭難の知らせを聞いて「晁卿(仲麻呂の中国での名前)の行を哭す」という七言絶句を作っている)、この長安への帰還は、人びとを驚かせた。
玄宗の死後、左散騎常侍(皇帝直属の諌官で従3品)に昇進。更には、日本への帰途途中、流され苦難を味わったベトナム方面の最高長官として鎮南都護、安南節度使(正3品)に任じられる。最後は潞州大都督(従2品相当)にまでなった。日本でも死後、正2品を贈位している。阿倍仲麻呂は遂に日本に帰国することなく、長安で没した(享年72)。
尚、753年阿倍仲麻呂の乗った船団(計4船)の第2船には、鑑真(687年~763年が乗っており、この時6度目にして待望の渡日を果たしている。また阿倍仲麻呂と苦難をともにした藤原清河(藤原房前の4男)の生涯も波乱に満ちている。752年第10次遣唐大使として入唐。玄宗に「日本はまことに有義礼儀君子の国である」と感じ入りさせ、また753年正月の朝賀の儀式で新羅と席次を争ったことでも有名だが、753年阿倍仲麻呂とともに上述の不幸に遭遇し、ベトナムまで漂流するが、苦難の末、755年長安にたどり着く。日本はこの藤原清河を迎える為だけの特別な遣唐使を759年派遣する。ところが唐ではちょうど安史の乱(755年~763年、安禄山・史思明らの乱)の最中で危険なため、唐朝は藤原清河の帰国を許さなかった。日本は藤原清河を在唐大使のまま任官し、一方唐朝でも天子の文庫長、秘書監に昇進した。776年日本出発の遣唐使に託して藤原清河の帰朝を命じたが、778年彼の娘のみが来日し、藤原清河の唐での客死が確認された。