三井物産ヴィエンチャン事務所長拉致事件

2002年9月掲載

三井物産ヴィエンチャン事務所長が自宅で就寝中、武装犯人グループに拉致される(1989年3月)

 1989年3月1日、現地時間午前2時(日本時間午前4時)頃、ラオスのヴィエンチャンで、三井物産ヴィエンチャン駐在事務所長、浅尾吉昭さん(事件当時61)が、就寝中に自宅に押し入った武装した数人組に拉致された。浅尾さん宅は、ヴィエンチャン市の中心街から約5,6km南に離れたメコン河沿いの道を少し億に入った所にあり、日本大使公邸のすぐ近くの場所。タイ語やラオス語を話していた武装犯人グループはあらかじめ電話線を切り、妻・三千子さんや現地人の守衛、メイドら5人を縛って、浅尾さんだけを拉致して逃走した。

 三井物産ヴィエンチャン事務所は、1972年(昭和47年)に設立され、事件発生当時の人員は、日本人スタッフは浅尾所長1人だけで、現地採用のラオス人職員7人で、日本のODA関係の仕事が主で、事件当時、三井物産はラオス南部チェチュットの水力発電所建設計画に参画していた。事務所はヴィエンチャン市中心街の中央市場や外務省ビルのすぐ近く。

 三井物産ヴィエンチャン駐在事務所長、浅尾吉昭さんは、1947年(昭和22年)、関西大学経済学科を卒業。翌年、旧三井物産に入社。1959年(昭和34年)サイゴン出張所に勤務したのをはじめ、東南アジア各国での勤務が長く、1975年(昭和50年)4月からはタイ国三井物産副社長。1979年(昭和54年)3月からはタイ国三井物産副社長のまま、三井物産ヴィエンチャン事務所長も兼務。本社に戻ってもインドシナ地域を担当し、1984年(昭和59年)に三井物産を定年退職し。その後嘱託としてタイに駐在。1979年3月から6月までの勤務に次いで、1988年1月から2度目の三井物産ヴィエンチャン事務所長としてヴィエンチャンに赴任していた。妻・三千子さん(49)とともに赴任しており、長男(25)、長女(23)は川崎市の留守宅に残っていた。尚、浅尾吉昭さんは当時パン・アジア・エンタープライズという航空券販売、ビザ手続き代行、ビル清掃、保険業務などを扱う在タイの三井物産の系列会社の社長も兼務。

 逃走に使ったと見られる小型トラック(ピックアップ)がヴィエンチャンの東約20キロのタケック村付近のメコン川堤防に乗り捨てられ、更にこの車のそばのメコン川に村人が繋いでいたボートがなくなっていたことも有り、犯人グループは対岸のタイに逃亡したと見られ、ラオス警察当局は、タイ側に捜査協力を依頼。3月1日夕よりタイ警察は捜査を開始する。犯人らが逃走時に使った車は当初小型トラックと見られていたが、3月2日、浅尾さん所有の青色のトヨタ・クラウンバンも、ヴィエンチャン郊外のタケック村のメコン河原で発見された。

 3月5日夜、タイ警察側は、事件前に犯人らをラオス側に運んだノンカイ県ムアン地区の船頭の身柄を拘束、事情聴取をしていることを明らかにした。調べによると、彼はメコン川で船頭をしながら、穀物の密輸やラオスに住むモン族(Hmong)のタイへの密出国を手助けしたりして生計と立てていたが、拉致事件前日の2月28日にジープに乗った男4人が彼の自宅を訪れ、小舟を雇って同日夜メコン川を渡りラオス側に入ったとのこと。彼の証言から浮かび上がったラオス人難民2人を、3月7日、短銃不法所持と不法滞在の容疑で逮捕し、追及を行なった。

  1989年3月8日、タイ東北部のノンカイ、ウドンタニ、ルーイの3県のいずれかに監禁されていると見て、タイ警官千人以上を動員して付近一帯の大掛りな捜査を開始。そして3月8日午後11時(日本時間3月9日午前1時ごろ)タイ警察特殊部隊が、ラオス国境近くの犯人グループのアジトを急襲。銃撃戦の末犯人グループのアジトに監禁されていた浅尾さんを無事救出し保護することができた。この銃撃戦で犯人側の2人が死亡(但し現場検証時には遺体は1体だけ)、数人が逮捕され、犯人グループの一部は逃走と報じられた。また救出現場は、最初、タイ東北部のルーイ県パクチョム地区ナムムアン村(ノンカイから西方約100kmの小村)と報じられたが、犯人グループのアジトは、正確にはメコン川から南に20数キロのウドンタニ県ナムソム郡郊外メーンムワンタイ村の人家のない藪の中にあったと判明。救出作戦は、タイ警察東北管区のプラチード司令官が陣頭指揮にあたった。(タイ警察は、襲撃前に逮捕していた犯人グループの主犯格と見られる男と「取引」をし、釈放を条件にアジトの場所をつきとめたと見られている)

 タイ警察の捜査当局は、犯人全員はモン族のラオス難民でこれまでにも強盗殺人や誘拐殺人を犯している犯罪常習者で身代金目当ての犯行であると発表。犯人グループは、3月16日までに7千万バーツ(当時で3億5千万円)を三井物産に身代金として要求する予定であったが、この実行犯グループは、東北タイのラオス国境地帯やバンコクを拠点に活動しているラオスの反政府右派ゲリラ組織から依頼され、成功の場合、7千万バーツのうち、2千5百万バーツをもらうことになっており、また在タイのラオス右派反政府ゲリラ組織は、ラオスに拘禁されている仲間の右派政治犯と浅尾さんの身柄を交換するとともに、ゲリラ活動の資金を獲得するために仕組んだ事件であると断定した。一方、ラオス国営放送は、3月11日夜、犯行は、ラオス現政権に敵対する在外右派グループにより行なわれ、目的は同政権のイメージダウンを図る事にあったと伝え、事件が政治目的を持ったものである事をラオス政府として公式に認めた。

 救出された浅尾さんは、ウドンタニ市のチャルンホテルに保護されたが、3月9日午後監禁されていた犯人アジトの現場検証に立会い、3月9日コンケン市で記者会見を行なった。その後バンコクのバムルンラート病院で健康チェックを受けた後、3月13日午後9時(現地時間)にはタイ国三井物産会議室で記者会見を行い、3月14日午前、タイ航空機でヴィエンチャンにラオスで捜査当局の事情聴取をうける。1989年3月23日午後7時前、妻と長女とともに成田着のタイ航空機で帰国した。

 尚、三井物産では、1986年(昭和61年)11月、フィリピンのマニラで当時の若王子信行支店長(この事件発生直前の1989年2月に死去)が身代金目的で誘拐される事件が発生しており、今回も事件発生後ロンドンの誘拐・テロ対策専門のコンサルタント会社「コントロール・リスク社」に相談していたと言われる。

参考引用資料:
*1989年3月の「朝日新聞」など

●事件当時の主な関係者
◆《日本政府》
・竹下首相
・小渕恵三官房長官
・宇野外相
・岡崎駐タイ日本大使
・早川照男駐ラオス日本大使

◆《ラオス政府》
・ブーン副首相兼外相(当時大喪の礼に参列した後も東京に留まっていた)
・アサン内務相

◆《タイ政府》
・プラマーン内相
・タイ警察局のサウェン副局長(タイ側の捜査を指揮)

●事件当時の在ヴィエンチャン日本企業
事件発生の頃、ヴィエンチャンには、三井物産のほか、トーメン、五洋建設、日本工営などの日本企業が駐在員を置いていた。
五洋建設は、ヴィエンチャンのラクシ川の港湾改修工事(日本の政府開発援助ODAによるもの)のため、社員5人を派遣中。
日本工営は、事件発生の1年ほど前からODAによるヴィエンチャン郊外の灌漑施設建設工事のコンサルタント業務に従事しており、社員2名を派遣中。

●事件当時のラオスへの日本のODA
日本はラオスに対しては、1987年、1400万ドルの援助を行なった。1986年のラオスへの供与はスウェーデンに次いで2位。ラオスは最も貧しい後発開発途上国(LLDC)であることから、従来から無償資金協力及び技術協力を中心に援助を実施してきた。無償資金協力は例年約20億円弱。技術協力約1億円。最近(事件当時)では、食料増産、ヴィエンチャン港や変電所の改修などが主なもの。
無償資金援助の場合は、すべて日本企業がラオス政府と契約して扱っている。有償資金協力については、1974、76年にナム・グム・ダム水力発電事業に対し、総額51億9千万円の円借款を供与して以来、実績はない。

・1989年3月3日 ラオスへの無償資金協力
尚、事件発生しまだ解決されていない1989年3月3日、日本政府は、ラオスに対して3億4214万5千円の無償資金協力を実施することにし、同日、ヴィエンチャンで早川駐ラオス大使がラオス政府との間で書簡を交換する。これはこれまで日本がラオスに対して供与した円借款のうち、一昨年度から昨年度にかけて返済期限のきていた債務を実質的に棒引きするため。この資金協力は、三井物産ヴィエンチャン事務所長拉致事件とは関係なく、事件発生以前から決まっており、この事件があっても予定通り実行となった。

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