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北タイ タイ・ユアン族のナーガ(龍)の”色と形”
岡崎信雄 タイ・ユアン族のナーガ(龍)の”色と形”
北タイ
これまでに、中国・雲南省・西双版納 タイ・ルー族のナーガ(龍)の“色と形”、ラオス タイ・ラーオ族のナーガ(龍)の“色と形”を紹介しました。今回は北タイのタイ・ユアン族の仏教寺院に見るナーガ(龍)の造形を紹介したいと思います。
以前(2001年9月)、京都大学付属の研究機関、東南アジアセンター(現在は研究所)開催の東南アジアセミナーに参加したことがあります。毎年、東南アジア研究の若手研究者を対象にした夏季セミナーが開催されています。このような研究所の存在や、セミナーが開催されているのを知ったのは、インターネットで東南アジア研究所のホームページを見たのがきっかけでした。2001年のテーマは「東南アジアの歴史万華鏡-21世紀を迎えて」でしたが、聴講を申し込んだ所、幸い参加できることになり、プロの先生方がどのような視点で研究しておられるのか、若手研究者の皆さんのアクティビティーなどなど、大いに得るところがありました。このセミナー開催時、昼食のおりに、たまたまタイのチュラロンコン大学から来ておられた女性研究者の方と、言葉を交わす機会があり、仏陀守護のナーガの造形に興味があり調べていると話した所、「それは北タイの文化ですね」とのことでした。お見受けした所、中国の広東あたりでよく見かける華人系の容姿の方であったとの記憶です。グローバル化したタイ文化の中心地、バンコク生まれ、バンコク育ちの都会人にとって、鶏頭ナーガによる仏陀守護の文化は、北タイ特有のアニミズムに根ざしたエスニックな文化と受け止められているようです。
1.はじめに
仏陀守護の鶏頭ナーガ文化は、北タイのチャオプラヤ河上流域から中央タイへと南下するにつれ、グローバル化した中央タイの文化に飲み込まれ、スコータイ以南ではその影は薄くなっていくように思われる。北タイの中心都市であり、バンコクに次ぐタイ第二の都市でもある、国際観光都市チェンマイの文化も、バンコク同様グローバル化が進んでおり、造形としての具象的な鶏頭ナーガは意外と陰が薄く、鶏頭ナーガのバリエーションとも云える、チェンマイ様式のナーガが、チェンマイおよびその周辺の地域に一般化している。
仏陀守護の鶏頭ナーガ文化が、なぜ北タイのエスニック文化なのかは、北タイから中央タイにかけての、この地域の民族的、文化的なマイグレーションの歴史的な背景が深く関わっていると考えられ、10世紀以降、北タイから中央タイにかけての、タイ族、モン族、クメール族、ビルマ族の民族興亡の歴史を概観してみたい。
北タイの山地部から平野部を貫流する、チャオプラヤ河流域の10世紀から18世紀、西欧列強の植民地支配にいたるまでの歴史は、先住のクメール族、モン族と中国西南の周辺部より南下したタイ族との熾烈な民族興亡の歴史でもあると同時に、北と南の民族的、文化的なマイグレーションによる、この地域の文化的なグローバル化が加速した世紀でもある。タイ族が10世紀頃、南下を開始した当初は、タイ族と先住のモン、クメール族との抗争であり、一方、ミャンマーのイラワジ河沿いに南下したビルマ族は、モン族、シャン(タイ・ヤイ)族との抗争をくりかえした。タイ族とモン、クメール族との抗争に決着がつき、チャオプラ河流域には13世紀から14世紀にかけてタイ族の覇権が確立、タイ族の王国が続々誕生した。北から順次、ランナータイ王国(1296年)、スコータイ王国(1238年)、中央タイにはアユタヤ王国(1350年)が建国され、スコータイ王国は13世紀後半から14世紀前半にかけてのラーマ・カムヘン王時代、隆盛を極めたが、その後1387年アユタヤの属領となり、1483年にはアユタヤに併合され、中央タイの勢力圏に組み入れられた。アユタヤ王国は14世紀後半から18世紀後半の約400年間(1351―1767年)続き、東北アジア(中国、日本)、東南アジア島嶼部(マレーシア、インドネシア)、南アジア(インド、スリランカ)、ヨーロッパ諸国との盛んな貿易による国際的な交易国家として、民族的、文化的なマイグレーションによるグローバル化が進み、北タイのエスニックな文化が入り込む余地はなかったのであろう。
一方、ミャンマーのビルマ平原を拠点としたビルマ族のパガン王朝(1044~1287年)は、12世紀(1287年)モンゴルの侵攻により崩壊、一時期、上ビルマ地域には現在ミャンマー領のシャン高原に居住する、シャン族(タイ・ヤイ族)が侵入、アヴァ朝(1364~1555年)がこの地域を250年にわたって支配した。その後、下ビルマに逃れたビルマ族は勢いを盛り返し、タウングー王国(1486~1752年)によるビルマ統一を開始し(1531年)、1546年ペグーを首都にする。この勢力が、北タイ地域に侵攻(1556年)、約200年間(1556~1774年)にわたりタイ族を支配した。このビルマ族による北タイの支配が、この地域の文化をアユタヤのグローバル化した文化から隔離し、北タイのエスニックな文化を継承させたのではないかと考えている。
2.北タイ、タイ・ユアン族のナーガの“色と形”
中国西南部周辺より北タイへと移住したタイ族は、タイ・ユアン族と呼ばれ、シーサンパンナのタイ・ルー族は、タイ・ユアン(Tai Yuan)族のルーツであると言われている。古く、タイ族は長江の南、浙江、福建、広東、広西、雲南、越南(ベトナム)に居住した百越族と密接な繋がりがあるといわれ、灌漑水耕稲作農法とともに、精霊信仰の民して北タイへと移住、鶏頭龍の文化も同時に伝えられたと考えられる。その後上座部佛教の導入とともに仏陀守護のナーガ文化が伝来、コブラの蛇頭が鶏頭に置き換えられた。この鶏頭ナーガの文化は、かってのランナー王国の勢力圏であったチェンマイ、チェンラーイ、メーサイ、チェンセーンにおいて、鶏頭ナーガのバリエーションとも云える造形を見ることが出来る。また、チェンマイの南、ランパーンにあるワット・プラ・タート・ランパーン・ルアンには、15世紀頃の造形とされる鶏頭ナーガを見ることが出来る。
一方、北タイ南辺のスコータイ、ピサヌロークの地域については、15世紀後半以降、アユタヤ王国の勢力下にあり、中央タイの文化圏に属するが、世界文化遺産のスコータイ遺跡およびピサヌロークを訪れ、仏陀守護のナーガ文化を調査した。
2・1 ランパーンのナーガ
チェンマイの南、約100キロ、ランパーン(Lampang)の近郊に、北タイで最も壮大なランナー様式の寺院といわれるワット・プラ・タート・ランパーン・ルアン(Wat Phra That Lampang Luang)がある。
寺院への階段の左右には、マカラの口から吐き出されるナーガと獅子が配され、参道を守護する。このナーガの頭部の造形は、鶏頭のバリエーションの一様式と筆者は考えている(図2、3)。
境内への入口には、15世紀中期建造の寺門があり、その上部には、左右に鶏頭ナーガを配し、尾の部分が絡み合った装飾用の塑像がある(図4,5,6,7,8)。このような構図の装飾は、スコータイ遺跡のクメール様式のプラーン(prang、塔堂)であるワット・シー・サワイ(Wat Si Sawai)の仏龕や、東北タイ、ナコーン・ラチャシーマ(Nakhon Ratchasima)にある、ピマーイ遺跡のヒンズー寺院神殿入口上部の飾り(lintel、リンテル)にも見ることができるが、しかし、これらナーガの頭部はコブラの蛇頭である。
境内には、1476年築、ランナー様式の三層屋根に覆われ、建物の四周は吹き抜けの、タイ最古とされるチーク材の木造建築、仏殿、ルアン(Wihaan Luang)がある(図1)。
この仏殿奥には、金箔貼りの厨子(図9)が配され、仏陀像が安置されているが、この厨子の黄金のレリーフ(浮彫)には、3頭の鶏頭ナーガを吐き出す構図のナーガ、およびその下方の左右に鶏頭ナーガを配する構図のナーガを見ることが出来る(図10、11、12)。
仏殿の後部には、1449年築、1496年に再建されたとされる、ランナー様式の銅板張りの仏塔がある。仏塔の四周には防護柵があり、防護柵に設けられた仏塔への入口の飾りには、傷みは激しいが、鶏頭ナーガの塑像を見ることが出来る(図13、14)。
(図15,16)は仏陀像の前面に配置された、柱状、木製の鶏頭ナーガ像である。これらはいずれもランナータイ王国(1291年~1556年)中期の作品であり、タイ・ユアン族が中国南西部周辺(雲南)に居住した当時のタイ・ルー族やタイ・ラーオ族と共有する文化の名残を示すものであろう。