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第7話 刀の贈答
2000年8月号掲載
コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」
~地域と時代を越えて~ 海の彼方に日本文化の原像を想う
ビルマのカチン族(雲南のジンポー族)の刀の贈答の風習と、「古事記」に記されたヤマトタケルとイズモタケル間の刀の贈答を想う
スウェーデン生まれのバーティル・リントナーは、1980年代にビルマの反政府勢力が支配していた地域を縦横に行き来して、香港のファーイースタン・エコノミックレビュー誌に寄稿を続けたフリー・ジャーナリストです。今、40代後半。その彼は、かつてインドのナガランド州から東に国境を越えてビルマのカチン州さらにシャン州へと縦断したときの記録を、『ランド・オブ・ジェード』という本にまとめ1990年にバンコクのホワイトロータス社から出しています。
バンコクに暮した人なら耳に懐かしいスクムウィットという通りに事務所を持つ、ホワイトロータス出版社は、東南アジアの旅行記・滞在記を中心に、メコン圏を地道に這いまわった、主に欧米系の人たちの地味な記録をたくさん出版しており、私のようなメコン圏オタクの情報の宝庫となっています。
インドのナガランド州、ビルマのカチン州・シャン州はずっと地続きで、それぞれナガ族・カチン族・シャン族のホームランドになっていますが、文化的にはカチン族の風習がナガ族にも見られ、またシャン族の生活文化(たとえば糯米食など)がカチン族にも一般化しており、共通の文化圏ができ上がっているような地域です。それにカチン州と地続きの雲南省にもカチン族(100万人)と同族のジンポー族(13万人)が住んでおり、ひとつの文化圏がインド・ビルマ・中国にまたがって生きているのです。
リントナーは1986年1月、カチン州の西のはずれにある村に入ったとき、村の長老から刀を贈らました。彼の本には「やせた、白いあごひげの村の老人が、カチンの肩カバンを一つと銀の柄の大刀を一振り、おごそかに私に手渡した。」と記録されています。
民族名としての「カチン」とは、実はビルマ人から呼ばれる他称で、自称は「ジンポー」であるとといわれ、中国政府はジンポー族と呼んでいます。またインドのアッサム州に住む同族はシンフー族と呼ばれています。カチンすなわちジンポー族の刀は、雲南省では「ジンポー刀」の名で他の民族たちの間にもよく斬れる名刀として通っています。一般にカチン[ジンポー]族の男子は帯刀するのが普通で、結婚式の日には新婦側は新郎に一振りの大刀を贈るのが伝統的なしきたりです。また友情のしるしに刀を交換する風習もあります。リントナーはカチン[ジンポー]族の伝統に従った最大級の礼遇を、村の長老から賜ったものと考えられましょう。
刀の贈答は古代日本にも見られたようで、『古事記』にはヤマトタケルが自分の木太刀をイズモタケルの真太刀と交換して、交換が終った後、「さあ、真剣勝負だ。」と叫んで木刀を持ってまごまごしているイズモタケルを斬り殺してしまいますが、ヤマトタケルとイズモタケルとの間に行われた刀の交換は、カチン[ジンポー]族の友情を固める礼式を下敷きにして、はじめて現実的な鮮明な説話になります。もしかするとイズモタケルが育った文化圏には、カチン[ジンポー]族の刀の贈答の風習が生きていたのかもしれませんね。倭人のヤマトタケルはそこにつけこんだようです。実際、カチン[ジンポー]族と隣り合わせに数十万のワ族が、やはりビルマと中国にまたがって住んでいます。このワ族と倭人を結び付ける考え方も学界の一部にあるようですが、カチン[ジンポー]族の御曹子とワ族の御曹子の間にこそ、『古事記』の説話のような事件があってもおかしくない状況です。
ところで日本列島に鉄刀が伝来してくるのは委奴国王や倭国王帥升が漢と通交した時代で、この間のものとして出土する鉄刀の分布は北九州と北陸に限られています。またそれより発達した3-4世紀の素環頭鉄刀もやはり北九州と北陸に集中して出土しています。刀の贈答の風習は、刀の実物とともに伝わったものと考えられますから、イズモタケルの育った地域は古代鉄刀が出土する北九州か北陸に求められ、時代は1-4世紀のことで、主に刀を帯びる実力を持つ地方の王族の間に、刀の贈答が行われ、この間の風習が倭人に珍しがられて『古事記』の説話としてのこされたものでしょう。
『古事記』には、またほかにもカチン[ジンポー]族に見られる奇妙な風習が描写されています。