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ウォーコレスポンデント「戦争特派員」
林 真理子 著、文藝春秋
1987年11月、ISBN4-16-309990-5
「サンケイ新聞」夕刊昭和61年5月1日から62年7月16日。
文庫版は、文春文庫より上・下2巻で1990年11月(第1刷)発行
<著者>林 真理子(はやし・まりこ)
昭和29年(1954年)、山梨に生まれる。日本大学芸術学部を卒業後、コピーライターとして活躍。昭和57年(1982年)エッセイ集「ルンルンを買っておうちに帰ろう」がベストセラーとなる。昭和61年(1986年)「最終便に間に合えば」「京都まで」で第94回直木賞を受賞。平成7年(1995年)「白蓮れんれん」で第8回柴田錬三郎賞受賞。平成10年(1998年)「みんなの秘密」で第32回吉川英治文学賞受賞。著書は「不機嫌な果実」(文藝春秋)「強運な女になる」(中央公論新社)「葡萄物語」(角川書店)など多数。
(本書紹介文より。200年8月・文春文庫第6刷)
1982年、エッセイ集「ルンルンを買っておうちに帰ろう」でベストセラー作家となった林真理子氏は、1986年、OLから造花クリエーターに転進した女性が出張先の札幌で7年前に別れた男と再会する「最終便に間に合えば」、フリーの女性編集者が古都を舞台に齢下の男との甘美な恋愛を描いた「京都まで」の短編で、1986年直木賞を受賞する。(直木賞受賞2作品他を収録する短編集「最終便に間に合えば」の単行本は1985年11月文藝春秋刊、文春文庫は1988年11月刊)
同年(1986年)5月、「サンケイ新聞」夕刊に連載開始された長編恋愛小説が本書で、新聞連載は翌1987年7月まで続き、1987年11月、文藝春秋から単行本が刊行された。本書では、「ベトナム」「ベトナム戦争」が、大きな意味を持つ形で登場してくるが、林真理子氏の他の多くの作品同様、都会に働く一人暮らしの女性の恋と仕事・生活が描かれている。
この小説の主人公・日向奈々子は、代官山に一人で暮らし、南青山にある有名デザイナーの奥山裕子事務所に勤める企画室サブチーフと言う肩書きを持つマーチャンダイザー。20代後半であるが、20代前半にしか見られず、すんなりと足が長く、ミニスカートがよく似合うファッショナブルで肌の美しい明るく可愛い女性だ。
主人公の奈々子は、シンガポールへの出張帰りの飛行機のエンジントラブルで、台北に一泊を余儀なくされた。そこで出会った男は、ベトナム戦争の取材経験を持つフリーのジャーナリストだった。梶原基治という名の40代半ばのその男は、アメリカ東部の大学を卒業し、その後新聞社に就職。新聞社に入ってすぐ、香港の支局に行き、それからベトナム勤務になり、ベトナム戦争に戦争特派員として従軍するが、その後従軍後遺症に苦しみ、離婚もし新聞社も辞め、今は事務所を開きフリーで雑誌に固めの記事などを書いている。
最先端のファッション業界で働き、遊び、恋愛に、セックスに、ファッションに、グルメに飽満していてほんものの恋をしてみたかった奈々子は、梶原に対しこれまでの奈々子の近くにいた男性とは違うものを感じ惹かれていくが、梶原はいつまでも奈々子と寝ようとはせず、こころゆくまで奈々子をじらしていく。この間にも奈々子は、6年以上も前からの妻帯者の恋人である俊や、知り合ったばかりの年下の三郎という男性とは易々とセックスを繰り返す。ほんものの恋を求め始めた女性の心の戸惑いや、奈々子と梶原との恋の展開など、十分味わえるかなりの長編恋愛小説。
文庫版の下巻に掲載されている文芸評論家の川西政明氏による見事な解説も見落とせない。この小説の美学についてということとともに、男にとっての「ベトナム」とは、それに対し奈々子にとっての「ベトナム」とはといったことについての評論解説がある。歴史の裏切りによって、「熱狂の時代」であったある時代とその時代の「私に」もどってゆけなくなった男とその魂の痛み。現実のベトナムには男が思う「ベトナム」などもはやない。それに対し奈々子は愛する男の中の「ベトナム」を求めて現実のベトナムまで出かけていくが、梶原との恋にのめりこみながらも、奈々子の心が更に求めていたものは一体何だったのか?
他にも林真理子氏の多くの作品に共通すると思われる女性の本音と現実、遠慮のない観察眼は、女性であれば共感できるであろうし、男性であれば驚くと同時に大変参考になるのではないだろうか。また1980年代後半の青山、麻布、表参道、六本木などといった街の生態や、都心に住むカタカナ職業の一人暮らしの女性の生活の描写は、林真理子氏お得意のものだろう。
ベトナム戦争時の戦争特派員だったという梶原の存在や、梶原と奈々子とのいろんな場面での会話以外に、本書の中で「ベトナム」が、どう登場するか、どうかかわってくるかについて最後に紹介しておきたい。奈々子は、ある日酩酊して話がくどくなった女友達と別れた後、六本木の本屋で、ベトナム戦争を撮った写真集を手にとる。「サイゴン」「解放戦線」「閉鎖」「兵士」などという単語に眼が止まり、いつも読むファッション雑誌等とは違った軽い興奮を感じ、メコン・デルタにたたずむ農民の姿などの写真も丁寧に眺め、写真集を購入するくらいに、奈々子は、梶原と出会って「ベトナム」という言葉を意識し始める。
そしてプレス用の展示会のためにパリへ出張した奈々子は、仕事で関係した長らく海外で暮らしているパリ在住の山崎圭太郎とともにパリのベトナム人街を訪ね、そこで山崎とベトナムやベトナム戦争についても色々語り考える事になる。今のように手軽にベトナムへの旅行ができなかった当時「ベトナムにいってみたい」と言う奈々子に、山崎は「ベトナムだろうとカンボジアだろうと、君が男とか洋服以外のことで興味をもつのは、とにかくいいことだ」「とにかく勉強してくれよ。あんたもせっかく、こうして海外に仕事で来れる身分なんだ。いろんなこと勉強してくれよ」と言葉をかける。(第7章「ベトナム人街」)
「パリ協定っていうのはなに?」と尋ねた奈々子が、「君たちの世代っていうのは、ベトナム戦争のことなんか何にも知らないんだな」と山崎に言われ、奈々子は17歳の自分を思い出した。・・・・奈々子はテレビ欄しか見なかったが、確かあの頃、新聞の一面にはベトナム戦争という文字がでかでかと出ていたはずだ。同い齢の友人の中には、意識の違うものが何人かいて、学園祭の時に(奈々子は千葉の田舎の高校出身)、「ベトナム戦争ー高校生の私たちから見て」などという研究発表をやっていたものだ。あの時、自分はなにをしていたのだろう。爪に透明のマニキュアをし、校則をおかしてまで軽くパーマをかけていた。そして他校の男の子たちとつれだって、笑いさざめきながら展示物の前を通り過ぎたはずだ。「ねえ、あっちの『パンチDEデート』コーナーの方に行ってみようよ」私ばっかりじゃないわ、と奈々子はつぶやく。今だってそうだけれど、ベトナムに詳しかったり、のめり込んだりした人は、みんな変わった人ばっかりじゃないの。大部分の人間が、ベトナム戦争なんて、遠い昔、遠いどこかで起こった戦争だって思っているのよ。けれど、今の自分は、その戦争が行われていた国に、たまらないほどの興味を持っているのは本当だ。・・・(本書第7章より)
1986年の年末の休みには、奈々子は「ハノイ、ホー・チ・ミン8日間」の団体旅行ツアーに参加する。今のように自由にベトナムに旅行ができる時と違って、長らく外国からの一般旅行者を自由に受け入れておらず、普通の団体旅行ツアー客を受け入れだした初期の頃で、当時のまだ暗く硬く物も何もないベトナムの旅の様子が窺い知れ、通訳やその同僚のベトナム人青年たちとのいろんな会話も展開されている。(第9章「サイゴンまで」)
そして終章の「サイゴン」では、ベトナム戦争時フリーのカメラマンとしてサイゴン陥落の日も含めベトナムに滞在していたドキュメンタリー専門のカメラマン・唐沢が、奈々子に当時の梶原について述べる場面があるが、そこでは当時の各新聞社の特派員たちの生活ぶりや意識、サイゴン陥落前後の様子などについても、唐沢の見方・意見が語られている。
本書の関連テーマと関連用語
●パリのベトナム人街
●ベトナム戦争報道特派員
●ベトナム和平パリ協定
●サイゴン陥落
ヌクマム、アオザイ、メコン・デルタ、ボートピープル、「アメリカにとってベトナム戦争とは」「ベトナム戦争その後」、フランスへのベトナム人移民、チャゾーバイン・チャン、ゴイ・ガア、キッシンジャー、べ平連、平和運動、ベトナム戦争・アメリカ兵とタイ、北爆、タンロイホテル、キューバからのベトナム援助、ソ連からのベトナム援助、ホーチミン廟、ノン、旧正月(テト)、クーロンホテル、サイゴン川、マジェスティックホテル、ベンタンホテル、大統領官邸、メエという木、17度線、サイゴン陥落以前の日本企業活動、経済問題、カンボジア侵攻、言論統制、思想教育、思想キャンプ、ブンタオ、サイゴンティ、コン・マ
本書の目次
(文春文庫版では、第1章から第8章までが上巻、第9章から第14章までが下巻)
第1章 トランジット
第2章 エスニック・レストラン
第3章 チャイニーズ・スープ
第4章 愛人ストリート
第5章 迎え火
第6章 カーエリア
第7章 ベトナム人街
第8章 東京コレクション
第9章 サイゴンまで
第10章 春のホテル
第11章 スカイレストラン
第12章 バカンス
第13章 プール・バー
第14章 サイゴン
ストーリー展開時代
・1986年4月~1987年7月
(主人公の日向奈々子は、本書では 27歳から29歳。ベトナム戦争が終わった時、高校2年生。1958年生まれという設定のはず)ストーリー展開場所
・台北
・成田
・東京(高樹町、南青山、六本木、赤坂、虎ノ門、西麻布、代官山、原宿、飯倉、渋谷、道玄坂、目黒通り、千駄ヶ谷、小松川、中野、芝浦、青山通り、川崎、乃木坂、新宿、駒場東大前、新富町、三軒茶屋、外苑前)
・熱海
・横須賀、江の島
・タイ・バンコク
・フランス・パリ 13区
・ベトナム
ハノイ、ホーチミン主な登場人物たち
・日向奈々子(血液型A、天秤座、短大被服科卒)
・梶原基治(フリーのジャーナリスト)
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・久美子(静岡の短大生)
・香苗(静岡の短大生)
・ディビッド(ロスアンゼルスの大学生)
・久美子の父親(静岡の海産物卸業)
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・奥山裕子(デザイナー)
・沢田征二(未来レーヨン社長)
・直子(奥山裕子の秘書)
・久恵(奈々子の2歳上の同僚。青森市出身)
・山下(奈々子の上司。企画室長)
・圭子(パタンナー)
・礼子(広報見習いの新人)
・緑川咲子(若いデザイナー)
・小川(販売責任の専務)
・英彦(常務。奥山裕子の実弟)
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・弓岡 俊(奈々子の恋人。妻帯者)
・内藤三郎(大手繊維会社社員)
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・容子(奈々子の友人)
・外村(容子の会社の社長で容子の愛人)
・”サザン・カンパニー”のパタンナー
リエ、サチ、ミホ
・伊藤(ファッション雑誌の編集長)
・メイピン(香港のバイヤー)
・崎田(カメラマン)
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・山崎圭太郎(パリのエージェントの日本人スタッフ)
・パリのベトナムレストランのマダム(ベトナム人女性)
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・広田(渋谷の旅行代理店勤務。弓岡俊の学生時代の友人)
・大谷(添乗員)
・黒川文子(ベトナム旅行で奈々子と同室となる女性。有名な財界人の愛人)
・川崎(バンコク駐在の商社マン)
・ティン(通訳のベトナム人青年)
・タム(ティンの同僚)
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・入沢礼子(美術史専門の大学助教授)
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・堀田典行(有名銀行青山支店勤務
黒川文子の愛人の末息子)
・北村由理子(女優)
・石山(六本木のベトナムレストランオーナー)
・オリビエ(ベトナム人。一流ベトナム料理店のオーナー。ワインの世界的権威者)
・森山(外苑前のレストランオーナー兼シェフ)
・唐沢誠(カメラマン)《回想・引用》
・ナターシャ(ロシア系フランス人のフリーのカメラマン。元ファッションモデル)●本書関連情報補足
尚、本書主人公の日向奈々子は、短大の被服科を卒業して初めは渋谷のあるブティックに勤めていて、ハウスマヌカンなどという言葉ができるずっと前で、「女店員」と呼ばれていた。本書単行本が発行された翌月の1987年12月小学館から刊行された林真理子著の『茉莉花茶を飲む前に』では、最初の物語が「ハウスマヌカンの奈々子」という題名の物語になっている。