2000年12月号掲載

コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」

~地域と時代を越えて~ 海の彼方に日本文化の原像を想う

古代、倭とモロコシ(諸越)を結んだ外洋船は、広州を本拠に勢威を張った南越王国と南インドをも繋げていた?

「七草なずな、唐土の鳥が、日本の国へ、渡らぬ先に、七草なずなの芹を叩く、ドドドンドン..」これは七草粥をつくるときに、古代「コシ」と呼ばれた日本海側の地方で唄われる歌です。唐土というのは楚の国のことで、長江流域の文化圏。騎馬民族が往来する中原の文化圏ではありません。

長江下流域の呉にとって代わった越の国の王は楚の王族から出たという説があります。またベトナムの建国伝説に出てくる始祖王フンヴォン(雄王)とは、楚の荘王のことであるとする説もあり、楚という国はたいへんな文化大国であったようです。日本では昔からカラ・モロコシという言葉が言い習わされてきて、それは海外の国をあらわすものとされていますが、カラとは韓国南端の地方の加羅で、倭人が住む国でした。またモロコシとは諸越のことで、中国人が百越と呼ぶ地方、すなわち長江以南のもろもろの越族が住む地方で楚の文化圏に入っていました。カラもモロコシも、外国というより、むしろ同じ文化圏、もっと大胆に言えば同じ倭人が住んでいる土地、と考えて見てはどうでしょうか。これらを結ぶのは、そう、外洋船です。

紀元前339年、楚の威王は越の国を滅ぼし、自分たちの王を失った越の各地の有力な族長たちは、それぞれ王または君を称して地方勢力をまとめ、楚に服属したといわれています。越族の底力というもので、これは同じく紀元前214年に秦がこの地方を征服したときにも東越王国・閔越王国・南越王国が成立して、秦漢交替の際の中原の混乱によってほとんど独立国といってよい勢力になりました。とりわけ南越王国の趙陀はみずから南越武帝を称して、漢の皇帝劉邦と同格の国交を行っています。

1976年に広州で古代の造船所の遺構が発見されました。伴出した半両銭によって秦・漢時代のものとされています。この造船所で建造された船は長さ25メートルの大船で水夫のほかに百人は十分乗せることができるものです。僕はこの造船所の主は南越王国であったと考えます。南越王国はかつての呉の水軍・越の水軍の流れを汲む海上権力の集団をおさえていたのではないでしょうか。南インド方面とのつながりの中心地は、かつての呉・越の地から広州に移り、南越王国は外洋船を使って南海貿易を経営し、おそらくは南インドまで到達していたのではないかと思うのです。

南インドの当時の政治・文化の中心はカンチーで、今のタミルナードゥ州の古都カンチープラムです。『漢書地理志』では黄支(カンチー)と見えますが、ご存知のように黄は漢音で「コウ」とはよんでも「カン」とよむことはありません。これは南越音ではないでしょうか。現在の北京音と広東音の違いのように、当時は北の漢音と南の南越音の間に、発音の違いがあったとしても不思議ではありません。なにしろ広いからね、中国は。それに南越王国の住民の主流は越族で北の漢族とは違うし、文化的にも楚の文化圏にあったわけですから、発音の違いが存在することはむしろ当然のことでしょう。

外洋船をあやつる海上権力集団である海人を擁し、南海貿易をおこなって繁栄した南越王国に対して、北方の漢はようやくその勢力の強大なことを懸念し、鉄器の禁輸を行って敵対姿勢を明らかにします。そうして紀元前112年、漢の武帝は大軍を派遣して南越王国を滅ぼし、前後して東越王国・ビン越王国をも滅ぼしてしまいます。ここに漢は長江以南を実質的な支配化に置き、およそ100年続いた南越王国を中心とした越族の独立は失われました。この征服戦の理由として、漢の武帝は南海貿易の利益をわがものにしたかったのだ、という説もあります。

武帝は征服が終了した後、カンチー(黄支)国に使節を派遣しますが、『漢書地理志』を見ると、漢の使節は南シナ海からマラッカ海峡を経てベンガル湾に航路を開いていた南インドの商船に、乗り継ぎ乗り継ぎカンチーにたどりついたと書かれています。南越王国が握っていた堂々25メートルの外洋船を漢は手に入れることができず、使節を乗せる南インド行きの船団を組むことができなかったことは明らかでしょう。南越王国に忠誠を誓っていたと思われる海人族の集団は、外洋船とともに忽然と姿を消してしまったようです。 

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